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諸生党殉難碑 諸生党殉難碑・由来碑 尊王思想の志厚い水戸藩主徳川光圀は、明暦3年(1657)『大日本史』の編纂に着手し、その後、130余名の学者などが携わった。 第6代藩主治保の時、半知借上をしても窮迫化の藩財政面から編纂継続の是非をめぐり、彰考館史局内部では、立原総裁派と藤田幽谷派が対立し、立原派は去ったが、明治39年(1906)に4部397巻が完成した。 幕末にいたり、第9代藩主徳川斉昭、藤田幽谷、その子東湖、会沢正志斎らに代表される後期水戸学は、内圧と外圧の現実の問題を深刻に受けとめ、大義名分論に基づき尊王の思想に攘夷論を附加し、独特の学風にしたのでこの攘夷論をめぐる学問上、政治上の抗争と、朝廷より水戸藩に下賜された戊午(ぼご)の密勅の取り扱いや薩長との密約(薩長は建設・水戸藩は破壊)による行動等で対立、藩論が二分、三分し、悲劇の水戸藩朋党(天狗、諸生党)の乱を生むに至ったが、両派とも尊王敬慕の思想では一致していた。 この乱の被害は、栃木、千葉県迄及びさらに水戸藩士のほか婦女子、農民などまでまきこみ、2千数百名の尊い人材を維新の祭壇にさゝげつくした。 諸生党の
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